空中あり?空中なし?
空中あり?空中なし?で通じる人、いますか?
子どものころの「高い鬼」のルールです。
鬼ごっこは鬼につかまれば負けだけれど、地面より高いところにたっていれば、つかまらないのが「高い鬼」だ。
塀から降りてダッシュして、花壇のふちのブロックに登れば、鬼はつかまえられない。
もちろんその間につかまれば、負けになる。
自分がたっている高い場所から、体がはみ出ている場合、これを「空中」って呼ぶんだけれど、これをつかまえられるとするか、しないかが、「空中あり」「空中なし」で決まるのです。
今はどっちがどっちだったか、忘れてしまったのだけれど。
ふと思い出して、子どもってフィクションをものすごく明晰にとらえていたんだな、と感じる。
自分たちのルールが、そう決めただけのフィクションだということを知っていて、それでいて存分に真剣に遊んでいた。
「あそこに登れば大丈夫」なルール、体をぺっちゃんこにして「はみ出ていませんよ」とアピールするルール、次に遊ぶときは反対になるかもしれないルール。
そういうことになっているということさえ明晰であれば、いくらでも大人だって遊べるんだなあ、それも真剣に、と、そのように思ったのです。
だからたまには、「空中あり?空中なし?」と高らかに自分に聞いてみたいと、思ったのです。
その勘違いがどこかを熱くする
よく知らない競技をみるとき、ルールを永久に理解しないままのタイプです。
このご時世、さっさと検索をかけるなり、誰か詳しそうな人に聞けばすむ。
どうしてかそうしない。
というタイプのかたも多いように思う。
なんというか、そういう楽しみ方もあるんですよね。と言い訳をする。
何をやっているのかよくわからないままに「何かやっている人を見て楽しむ」ということが。
なぜか半分うしろめたいような気分でずるずる見続け、あっという間に時間がたつ。
そんなことはありませんか。まあ、人にしかできない、それも怠け者にしかできない高尚な時間の使い方と言えます。
ところがここに、さらに上手の、「自分が思い込んだルールで観戦する」という輩が出現するわけです。
たとえば今は昔、懐かしの日韓ワールドカップのときのこと。
実家住まいでしたが、家族全員が模範的なにわかファンに染め上がった。
ちょっと話はずれますが、当時は冷蔵庫にドイツ代表のゴールキーパー、オリバー・カーン選手の切り抜きが貼られ、じつにつまみ食いがしにくい雰囲気になっていた。
会社ではスペイン代表のフィーゴ選手について、「見ているだけで妊娠しそう」と同僚とささやきあっていた。
そんな期間中、どこかの試合でなにやらいざこざがあって、フリーキックが指示された。
フリーキックのときって、ディフェンス側は「手を出しませんよ」みたいに、両手を前にまわしていることが多いですよね。
すると両手は見た目、下腹部に近いあたりに置かれる。人体の構造上、たいへん自然な姿である。
これを母が、「ボールが急所に当たらないようにしているんでしょ?」と驚くべきことを言いだした。
試合中の緊張する一瞬が、我が家の茶の間ではでれでれにとけてしまい、母を除く全員が笑い崩れてしまった。
いくら違うだろうと言っても、母は「だってそう見える」と言い張っていた。今だってそう思っているだろう。
「だってそう見えるんだもん」という主張の怖いところは、こっちも別に詳しいわけではないから、言い張られれば言い張られるほど、「もしかしてそうだったりして」などど感化されてゆくところだろう。
しかも、人に確認できるようなことでしょうか。
こうして謎は増えていくのです。
ゴン フォックス
あるとき突然思い立ち、ラジオ英会話を聞きはじめた。
(今続けているかって? ははは)
日本の童話を英語で読む企画があったのです。
数日間かけて、初めから終わりまで英語でよみ、英語の言い回しを学ぶというもの。
ここで取り上げられたのが、「ごんぎつね」だった。
新美南吉の。
みなさんも知っているでしょう、あの悲しくも美しい物語を。
「ごんぎつね」ならぬ「ゴン フォックス」は英語で聞いていると、不思議な風味があった。
日本の昔話なのだけれど、もっと遠い、なんだかちょっと別の国の話のようで、良く知っている街なみをあるいているのだけれど、看板の文字が全然読めない旅のような感じがあった。
ラジオ英会話は、ネイティブの先生2人と、日本人の先生1人が軽妙にやりとりしながら進めていく。
「ゴン フォックス」も毎日つつがなく進行し、物語が終わる日になった。
英語で読んだって悲しい終わりに、しょんぼりしていると、ネイティブの先生の1人が明るい声でこう言ったんですね。
「だけどさあ(という感じで)、ゴンが死んだとか書いてないし、ヘイジュ―(兵十)と友達になるかもしれないよ!」
They will make friends!
とてものことに「もちろんさ!」と答えられる気分にはならなかったけれど、その後の「ゴン フォックス」の続きも気になるなあ。
雪女なんか訳したら、「今度は夏に会おうぜ!」とか言って終わりそうだなあ。
というのはともかくとして、するとかのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)があれほどまでに日本の怪談を哀れにも美しく、幽気の立ち込めるがごとくに訳せたのはなんなのだろう、という気がする。
私もまた、海外の小説をそのように、手のひらで汲み取るように読んでいるだろうかと考えてしまう。
「ゴム喰い」、いませんか
この間、ニュースサイトを見ていたら、「家のなかでなくすものは何ですか?」というテーマの記事があった。
ペン、とか財布、とか、いろいろみなさん、家のなかの探索を余儀なくされている。
私の場合は何といってもあれですね、昔から。
「髪をしばるゴム」である。
あれはいくつ買っても、どこに置いても、本当にすぐどこかにいってしまって、使おうとするのにないない、とあっちこっち開け閉めしなくてはなくなる。
不便なんですよ。
ささいなものだから買い忘れ、またまたないない、となる。
これを約1.5日ほど行ったあと、ようやくドラッグストアだかどこだかで買うんだけれど、こういう買い物は別に楽しくないものですね(家で使う用だから黒ゴムだし)。
買ってきたものを引き出しにいれて「よーしここに入れた!」と指差し確認しても、なくなるころには日が経っているから、どこに置いたのか忘れている。
あまりの「ないない」さに、これはもう家に「ゴム喰い」がいるにちがいないと思うほど。
ゴム喰いっていうのは、おそらく、アリクイみたいな長い鼻をしていて、夜出てきては、ゴムを集めて鼻にはめて、ぱちんぱちんやって遊んでいるのであろう。
餌はこれもよくなくす、髪留めのピンなのだろう。
あまり出くわしたくないから、ゴムとかピンだけなら、まあいいか、という気になる。
全部はとられないように、2、3個を手元に保管して・・・(そう、本当は置き場を決めておけばなんでもなくなりはしないのです。それだけの話なんだけれど)
丹頂鶴と小学生たち
ん~寒い。
明日また東京にも雪が降るかもしれません。
ずっと前に、冬に家族で北海道旅行をしたとき、丹頂鶴を見に行ったことを思い出す。
人の背と同じくらい大きく、雪のなかできらめくように美しい鳥だった。
どこかは忘れてしまったのだけれど、近くの「丹頂鶴記念館」みたいなところに立ち寄ったのです。
小学校みたいな施設で、「丹頂鶴の巣」(実物大)が毛糸で作られていたりして、手作り感があふれている。
壁には「大切な丹頂鶴と自然を守りましょう」みたいなポスターが貼られていて、そのしたに地元の小学生が見学に来た感想が、絵手紙として掲示されていたのです。
つらつら見ていくと、「たんちょーにアチョー」とか「たんちょーにカンチョ―」なんてのがあって、腹がよじれた。
ちゃんと絵も描いてあるんです。
小学生男子って未来永劫、こんなことをするんだろう。
そのなかで一番気に入って、今でも覚えているのが、丹頂鶴の親子が三羽で眠っているところを描いた絵だった。
丹頂鶴のお父さんとお母さんと子供が、ちゃんと横になって、布団に首元まではいって、ものすごく幸せそうに寝ているのです。
丹頂鶴の生態について、ちゃんと説明してくれたであろう案内の人の話にまったく耳を貸さなかった小学生たちよ、本当にあなたたちのセンスはとてつもなく面白いと思うのです。
LED礼讃
震災以降、会社の照明がLEDに変わったという人も多いのではないでしょうか。
前の会社で、全社LEDに変わったとき、始めのうちは目がぱちぱちするほど明るく感じた。
「明るいね」
「そのうち慣れるかも」
と話し合っていたのだけれど、そのときに、「この明るさに喜んだろうに」と思い出した人がいた。
仮にKさんとしておきましょう。
Kさんは中途入社の男性で、たいへんおとなしい人であった。
スーパー草食系というか、おひなさまみたいでおしとやかだなーと思った覚えがある。
入社して半月ほどたったときに、「何か職場で困っていることはありませんか?」と声をかけてみた。
私としては、あれですよ、「目配りのきく先輩」ふう、「私ってとっても気遣いさん」と自画自賛気味なモードだったわけです。
すると彼は、
「男子トイレの電気が暗いんです」
と静かに言うではありませんか。
知らんよ。知るわけがない。
「暗いんですか?そうなんですかね?」
と答えながら、この話題を誰かにうまく振れないかと探したのだけれど適当な人が出払ってしまっている。
「暗くて怖いんです」
と静かに言われると、そ、それはお気の毒に、という気になって、
「じゃあ、ちょっと誰かに聞いてみるね」
と答えておいたわけです。
そのあと、同僚のだれかれに、「あの、男子トイレの電気が暗いって、困っている人がいるんですけれど」と言ってみた。
すると、会社生活に煮詰められて半おじさんに仕上がっている同僚は、
「トイレが暗い?トイレは暗いもんだろう!」
と言い出す。
『陰翳礼讃』ですね。
「そーだそーだ、メイク直すわけじゃなし!」
とこっちも同意したい気持ちが半分、やはり気の毒に思う気持ちが半分というところ。
「悪いのだけれど、一応さ、総務にさ、聞いてみてもらえる?」
と頼んで、結局は電球を変えてもあまり明るさは変わらないということが分かった。
Kさんも「わかりました」と静かに頷いていた。
で、割と短期間でKさんはそのあと退職されてしまうのだけれど、ずっと「トイレが暗いと言っていたKさん」が記憶に残っていたのです。
Kさん、会社のトイレのLEDになりましたよーと。
明るいトイレのある職場で、元気にやっていることを祈る。
違うよ、私
「ちーがーうー」が口ぐせの、姪っ子がいます。
(去年大豊作だった、荒ぶるあの女のかたではないですよ)
何が違うのかわからないけれど、一緒に遊んでいてもいつも「ちーがーうー」と言っている。
うーん。わからない。
「違うの?」と聞くと、きっぱりと「ちーがーうー」と言う。
なんだかわからないけれど、違うんだろうなあと思っている。
自分も小さい時、こんな感じだったなあと思いだす。
人を否定しているわけではなくって、大きな何かに囲まれているようなんだけれど、今一つ自分はしっくりいっていないような感じがする。
ぼややーんとした霧のなかを一生懸命見ようとしている感じ。
イヤな感じでもなく、いい感じでもなく、そういうときに、「うーん」とか「ちーがーうー」とか言いたくなるんだろう。
あらかじめ決められた答えを手渡されたときの違和感から、ものごとを始めていくこともできる。
そう考えれば、Me, either(私もまた、そうではない)という個人的ひっそりムーブメントも面白い。