どこに行ってしまったの?
そのおじさんはバレバレのかつらをつけていた。
おじさんは、地下鉄丸ノ内線 本郷三丁目駅徒歩5分の場所で、奥さんと一緒に小さなダイニングカフェを開いていた。
というと、おじさんが店主であるかのようだが、それは違う。
おじさんの役割は、読んでもらうと分かると思う。
滋味あふれる料理とふくよかな味のケーキは、すべて奥さんが手作りしていた。
おじさんは注文とりとお運びが担当であった。
誰かを店につれていくときは、まえもって「おじさんがかつらだからね」と言っておくのに、店に入った友だちは、おじさんを見るなり目を輝かせるのである。
おじさんはそのうえ、忘れんぼであった。
食後の平和を楽しんでいるお客に、「私なにかご注文ほかに聞いてましたっけ?」などと突然たずねる、なんてことをしていた。
おじさんのアイディアがメニューに反映されていなかったわけではない。
じっくり煮込んだカレーと、甘すぎない絶妙なハヤシを半分ずつ皿に盛った『ハーフ&ハーフ』はおじさんの考案によるものだった。
べつにけちをつける気はないが、まあ、安直な発想ではある。
おじさんはときどき、お使いにだされていた。
「カルピスバター?そういえばわかるのか?」などと騒がしく店をでていくのである。
おじさんよ。
ポットでたっぷり供される紅茶がおいしかったあの店で、実にあんまりおいしくなかったコーヒーは、おじさんのこだわりで淹れていたことがわかったとき、われわれ常連客はみな、「なるほど!」と膝を打ったものである。
おじさんよ。
急に閉店してしまってから、何年たつだろうか。
私はおじさんが懐かしくてたまらん。
閉店の貼紙に、客が三々五々、メッセージを書き残したことを知っているだろうか。
おじさんよ。
どうかどこかで、奥さんと店を開いていてほしい。
どこかの街で、ふと入った店がおじさんの店であることを、いまだに願っている。